8/12 アブシンベル・アスワン


【アブシンベル】

《ヌビア》

 この日は,今回の旅行でもっとも南に位置するアブシンベルと,その北に位置するアスワンに向かいました。アスワンハイダムの建設でできた巨大な人造湖であるナセル湖の一番南(上流側)に位置するのがアブシンベル,一番北(下流側)に位置するのがアスワンです。アスワンとアブシンベルは約280kmほど離れていてるわけですから,ナセル湖の大きさが想像できるかと思います。
 この一帯は,エジプト最南の地で,
ヌビア地方と呼ばれています。ヌビア地方は,世界で最も日照率の高い地方といわれ,典型的な砂漠気候です。アスワンハイダムができてからは,ダムの水面からの水蒸気で雲が発生するようになり,以前とは気候が大きく変化したそうですが,それにしても暑さが厳しいことにはかわりありません。
 ヌビア地方にはいると,色黒で髪の毛のちぢれた人々が多く見られるようになります。カイロで見るエジプト人とは私たちでもはっきりと見分けがつき,ちがいがわかりました。彼らはもともとこの地に住んでいて,独特の言語と文化をもち,一般的に温厚で物静かな人たちが多いようです。アスワンでファルーカを操っていた青年もヌビア人で,とてもシャイでやさしそうな顔つきをしていました。

《エジプト屈指の大神殿が水面下に沈む?》

ナセル湖(この湖の底に沈むはずだった神殿は,救われた。) スーダン国境まで50kmもないところに位置するアブシンベルへは,カイロから空路1時間50分。ちなみに北回帰線を越え,北緯20度そこそこです。7時30分発のMS45便(A300-600R)がアブシンベル空港に着いたのは9時20分です。アブシンベル空港はアブシンベル神殿観光のためにあるような空港のような感じを受けました。すぐにバスに乗りアブシンベル神殿の入り口に着いたのは9時40分でした。厳重なセキュリティチェック(エジプト国内の観光地で何回X線を浴び,金属探知器で体の周りを探られ,いかついおじさんにボディタッチをされたか・・・)を受け,遺跡の中に入りました。ナセル湖を右手に見ながらアブシンベル大神殿に向かうわけですが,エジプト屈指の遺跡が水没する運命を免れたということを書きたいと思います。
 私も,日本にいるとき本を読んで知ったのですが,このアブシンベル神殿(大神殿と小神殿)は,もともと現在の位置よりもやや南東にあり,60m上の現在の位置にそっくりそのまま移動したというのです。移動したといってももちろん自分で動くわけありませんので,誰かが移したわけです。何のために?だれが?
アブシンベル大神殿。山のようなドームはユネスコの壮大な移動計画を支えている大コンクリートドームです。 まず,移動したのはなぜかということですが,1972年のアスワンハイダムの建設により,水面下に沈んでしまうのを救うためです。アスワンハイダムの建設は,エジプト近代化に大きく貢献する代償として,大小様々な古代遺跡をダム湖に沈めてしまったのです。その中でも,規模,レリーフの美しさなど,群を抜いていたアブシンベルの遺跡を守ろうという運動が起こったのです。
 呼びかけたのは,国連の機関であるユネスコ。全世界に呼びかけ,国際キャンペーンの結果,アブシンベルの遺跡は間一髪救われたのです。神殿は,大小いくつかのブロックに切断され,今の場所に移されたのですが,なんと岩山の中に,大ドームをつくり,その中に神殿は納められたのです。ドームの中は,コンクリートが神殿をしっかりと支えるような構造になっていて,表からは想像もつきません。3000年前の大建築と現代の最新技術との融合ですね。そのおかげで,こうやってアブシンベルの神殿を見ることができるのですね。

《アブシンベル大神殿》

内部の大列柱。天井を支えている。天井にも見事な装飾がある。左から2つ目のラムセス2世像の頭部は崩落していて,足下にそのままになっている。 アブシンベル神殿は,第19王朝のラムセス2世による今から約3300年前に造られた建造物です。「建築王」と呼ばれたラムセス2世は,ルクソールのカルナック神殿の大列柱,ルクソール神殿の塔門,メンフィスの巨像など,エジプト各地に遺跡を残していることで有名です。しかし,その中でもアブシンベルの壮麗さや,内部のレリーフの美しさ,巨像の迫力などは,どれをとっても群を抜いています。エジプト屈指の遺跡です。
 エジプトの神殿には,カルナック神殿のようなタイプと,このアブシンベル神殿のようなタイプと大きく2つにわかれるそうです。アブシンベル神殿は,岩窟神殿の仲間に分類され,その中でも
最大規模の神殿です。大神殿の大きさは,幅38m,高さ33m,奥行き63mもあります。
 まず,大神殿の正面には,ど迫力のラムセス2世像(高さ20m)が4体並んでおり,左側から順に,年齢が高くなっていくそうです。また,王は上下エジプトの支配者であることを示す二重王冠をかぶっていて,頭上には,太陽を迎える犬の顔をしたヒヒの姿が22体描かれています。ラムセス2世の足下に並ぶ立像は,王妃や王女たちと型取ったものだそうです。エジプト国内でもナイル川上流の最果ての地にこれだけの巨大建築物を造らせた
ラムセス2世の強大な権力には,本当に驚きます。
至聖所にある4体の座像ヒッタイトとの戦いで大勝利を上げたラムセス2世の様子を表したレリーフ 入り口を過ぎると,まず大列柱室があります。オシリス神の姿をしたラムセル2世の柱(高さ10m)が計8本で天井を支えています。岩窟神殿ということで圧迫感があり,野外に立っている列柱よりも,存在感がありました。壁に描かれたレリーフは,カデシュ(現在のシリア)の戦いをモチーフ(ヒッタイトとの戦いで勝利を収めた壮大な戦闘シーン)にしたもので,保存状態が大変素晴らしいです。また,至聖所の前にあるネフェルタリ(ラムセス2世最愛の妻)のレリーフが大変見事でした。
 最も奥にある至聖所には,岩を彫り抜いて作ったプタハ神,アモン・ラー神,ラーハクティ神(ラーとホルスが一体となった神)と,神格化されたラムセス2世の座像が(左から順に)が並んでいました。この至聖所は,年に2回だけ朝日が差し込むように造られているそうです。その2日は毎年2月22日と10月22日です。実は,その両日はラムセス2世の誕生日と戴冠式の日ということだそうです。アブシンベルは毎年この両日盛大なお祭り騒ぎになるそうです。観光客や報道関係者,地元のヌビア人が見守る中,朝日は,至聖所に向かってサーッと貫き,まず,国家の最高神であったアモン・ラー神(左から2番目)を照らし,次にラムセス2世(右から2番目)そして,空の神ラーハクティ神(一番右)を照らしていき,角度の関係から,スーッと消えていくそうです。一番右のプタハ神には,まったく光が当たらないわけですが,このことから,プタハ神が「闇の神」と呼ばれるようになったそうです。しかし,ガイドの話だと,プタハ神は闇の神ではなく,本当は職業の神だそうです。いずれにしても,当時の建築技術の高さや高度な天文学の知識がこのことからよくわかります。光が当たる3体の像の真ん中にあるラムセス2世は,まず最高神と,その後空の神と一緒にスポットライトを浴びようとは,なんと自己顕示欲のすごいこと。ちなみに,現在は上の写真からもわかるように,真ん中2体は電球のスポットライトに常時照らされています。
 大神殿,小神殿ともに,レリーフは足下から照明で照らされていますが,写真撮影にはとても困難な条件です。内部の写真撮影は,フラッシュが使用禁止なので,カメラのフィルム感度が低いと,まず写りません。コンパクトカメラでは,それでなくてもレンズが暗いこともあり,合焦しにくく,仮にシャッターが切れたとしてもブレブレだと思います。ここで写真撮影をしたいのであれば,感度が800か1600のフィルムが必要だと思います。(神殿の外では逆にその感度では絞りきれなかったりシャッター速度が追いつかなかったりするため無理があるので,神殿の外と,中でフィルムを交換しなくてはなりません。その点デジカメは楽ちんでした。1ショットごと感度を変えられるので,適正露出を比較的容易に作り出せます。)ちなみに,このページにあるレリーフの写真は,開放F値が3.5のレンズでISO感度を800〜1000にして,なんとか撮影したものです。それでもシャッター速度は,6分の1〜15分の1ほどです。できれば,一眼レフ+明るいレンズ(それも広角)がお勧めです。(35mmの一眼レフで,フィルムはISO800以上,レンズはf=24mm前後,F2.0ぐらいがよいかと思います。)
 バスの発着場付近の土産物売り場で売られている絵はがきは,写真があまりきれいではなく,また,印刷の技術のせいか,自分で撮ってきた方がよっぽどきれいだと思います。

《アブシンベル小神殿》

アブシンベル小神殿の外観 大神殿の隣に,小神殿があります。この神殿は,ラムセス2世が最愛の王妃ネフェルタリのために建造した小さな岩窟神殿です(小さいといったも大きいのですが・・・)。
 ラムセス2世は歴代のファラオの中でも最も多くの妻をもったことでも有名です。生まれてきた子供の数は190人を越えたそうですから驚きです。その多くの妻の中にあって,
ネフェルタリは別格だったようです。エジプト各地にある立像やレリーフにも,ラムセス2世とネフェルタリが並んでいるものがとても多いことからも,そのことがわかります。この小神殿もネフェルタリのために造られたものですし,8月14日に訪れたネフェルタリ王妃の墓は,(今回のエジプト旅行で,最も感激した場所でしたが)他の墓とは比べものにならないほど細かい細工の施された彩色レリーフが見事でした。(ネフェルタリ王妃の墓の隣にラムセス2世の母親の墓がありますが,そこはたいしたことないそうです。)
 神殿の正面にはラムセス2世の立像4体とネフェルタリ2体が並び,彼らの子供の像が足下に刻まれています。大神殿ほど大きくはありませんが,小神殿のレリーフも細工の細かさなどは,大神殿に勝とも劣らない立派なものです。
ハトホル女神とネフェルタリ王妃のレリーフ。手にはアンク(鍵)をもっている。 内部には,死者の守護神で美を司るハトホル女神のレリーフが彫られた柱があります。また,ラムセス2世とネフェルタリ王妃を描いた彩色レリーフも壁面を飾っています。
 ところで,アブシンベル大小神殿の迫力やレリーフにも圧倒されましたが,空の色にも魅了されました。空ってこんな色だったかなぁと思うような青色。日本で見ている空の色は,もう少し淡かったように思います。一面の砂漠に,ナセル湖の青,空の青。その間に大神殿。コントラストとスケールの大きさに感動しました。 
 アブシンベル神殿の入り口に戻るとバスが待っていました。到着してから1時間30分。11時13分に空港に向かい,11時20分には空港着。予定のフライト時刻は11時20分でしたが,結局は,カイロから乗ってきた飛行機が待っているだけ。乗ってきた人のほとんどが,乗り込まなければ離陸しません。あまりあせることもなく,飛行機に乗り込み,アブシンベルを離陸したのは11時52分でした。
 MS46便(A300-600R)は,一路アスワンへ。
アスワンへは空路30分ちょっと。12時25分にアスワン空港に着陸しました。

【アスワン】

 アスワンは,カイロから南へ860キロ,ルクソールから南に200キロの位置にある近代都市です。古くから軍事拠点であり,上エジプトの時代にはすでに州として歴史に名前が残っています。
 ナイル川に浮かぶ島の一つである
エレファンティネ島は,先王朝時代から人々が住み着き,古代エジプトの時代には,ヌビアとの交易の拠点として,また,前線基地として重要な島でした。グレコローマン時代(紀元前300年ごろからのアレキサンダー大王の時代)になっても,国の最南端にあったため,キリスト教の伝来は遅く,5世紀ごろまでは,フィラエ島のイシス神信仰が中心でした。アスワンより南は,前述のヌビア地方が広がっていたため,当時はアスワンがエジプト最南端の地だったそうです。古くから重要な地であったアスワンは,アスワンハイダムの完成で近代化や工業化が遂げられ,大きな都市として発展する一方,スーク(市場)やその周辺の街並みは昔とまったく変わらぬ人々の姿を見ることができるたいへんおもしろい街でもあります。
 アスワンは,
何もする気にならないほど暑くなるので,特に午後の強烈な日差しの下では,あまり無理をせず,ファルーカ(と呼ばれる白い帆掛け船(ヨット))でナイル川をセイリングしたり,ついでにナイルに浮かぶ島々や沿岸の遺跡を散策したり,また,島に建てられたホテルでのんびりしたりするのもおすすめです。

《アスワンハイダム》

 アスワン空港は,とてもきれいな空港でした。飛行機から荷物が出てきて,それを確認した後,専用バスに乗り,アスワンハイダムに向かいました。空港を出発したのは,12:54。たったの10分あまりで,アスワンハイダムに到着しまた。到着といっても,下からダムを見上げるのではありません。ダムの堰堤の上を道路が通っているので,ダムの上に着いたといった感じです。
 それまで使われていたアスワンダムの上流約7キロに建設されたアスワンハイダムが完成したのは1972年です。全長3600m,高さ111m,頂上部の幅40mという巨大なダムは,もちろん
世界最大です。古代エジプトのピラミッドに対比され,現在のピラミッド建設とも称されるそうです。ダムの建設によってできた人造湖ナセル湖の全長は500km(東京大阪間と同じくらい)もあります。
 ダム建設でできたナセル湖に水没したのは,ヌビア地方の約半分である下ヌビア全域と,上ヌビアの一部です。そこには,古代遺跡群が多く残されており,先述のアブシンベル神殿をはじめ,イシス神殿ほかいくつかがユネスコの呼びかけで救済されました。しかし,すべての遺跡を救済することは不可能で,いくつかは現在も湖底深く沈められています。
 アスワンハイダムは当時の時代背景もあって,ロシアの協力(ドイツも技術協力)で完成したダムです。ナセル湖という名前は,当時のナセル大統領の名前からとったそうです。
 アスワンハイダムでは,写真撮影をするために10分ほど停車しただけでしたが,ダムの上からその大きさを実感するのにそんなに長い時間は必要ありません。ちょうど,10分ぐらいでちょうどよかったといった感じでした。また,このころ太陽は,真上から照りつけ,アスファルトからの照り返しもあって,外で長い時間立っているとふらふらしてきます。
 ダムの写真撮影,特に望遠レンズでの撮影は,軍事上の問題などから禁止されているそうですが,観光客はまず,問題ないそうです。

《切りかけのオベリスク》

 今回の旅行でもっとも気温が高くなったのが,この日の昼です。なんと摂氏50度。さらに,太陽がほぼ真上から照りつける中,照り返しのきつい石切り場へ行きました。360度どこからも熱せらるという体験です。午後1時30分から2時という,もっとも暑い時間帯だったせいもあるかもしれませんが,とにかく暑さにはまいりました。
 アスワン周辺のこのあたりは,エジプトでも屈指の花崗岩の産地として有名です。かつて数々の石がここで採掘され,エジプト中に運ばれオベリスクや彫像として用いられました。古王国時代には,ピラミッドの化粧石とするためにナイル川河口のギザにまで運ばれています。(現在もギザの三大ピラミッドの真ん中,カフラー王のピラミッドの上部に残っています。)この切りかけのオベリスクは,もし完成していればエジプトに現存する中で最大のものになったといわれています。長さが41m75cm,基底部が4m四方(ぐるっと一周回ると100m!!)というものです。切り出し中に亀裂が生じたのでそのまま放棄されたのだと考えられています。
 このオベリスクは,石材の切り出し方法を現在に示す資料としての価値が高く,貴重なものです。石の切り出し方やオベリスクの作り方がわかってとても興味深かったです。当時の石切の方法はというと,石に切れ込みをつけ,木のくさびを打ち込み,そのくさびに水をしみこませて膨張させ,自然に石が割れるのを待つというのです。切り口にはほとんど凹凸はできません。当時の高い石切技術が伺えます。
 オベリスクの周りをぐるっと一周することができますが,その上に立つことは禁止されています。ただ,それでなくても高い気温の中で,下からも照り返しの熱にやられないように注意が必要です。体力に自信がない方は,早々に退散した方が得策です。私は,せっかくきたのだからと欲を出して,ぐるっと一周まわり,ほかの石切の痕も写真に収めてきました。かなり体力を消耗しましたが…。
 この日の昼食は,切りかけのオベリスクから車で5分ほどのとことにある新しいレストランでした。NileHomeRestaulantというお店です。チキンのローストがメインでしたが,最初に出てきたモロヘイヤのスープがとってもおいしかったです,モロヘイヤはエジプトが原産ということは聞いていましたが,ニンニク風味の暖かいスープはとてもおいしく,日本人の口にもとてもよく合いました。  

《ホテル・ファルーカ》

 この日のホテルは,ナイル川に浮かぶ小さな島全体がホテルという「イシスアイランド」というところでした。岸からホテルの専用クルーザーでホテルに横付けします。ホテルのすべての部屋からはナイル川が見える作りになっていて,ゆったりと時間が流れるようなそんな雄大な景色をどの部屋からも見ることができます。私たちの部屋のベランダからの眺めは特にきれいでした。でも,さすがエジプト内陸部。ベランダのタイルが熱いこと熱いこと。夕方だというのに,洗面所で洗って手で水を絞っただけのジーパンが1時間で乾いてしまいました。パンツや靴下は見る間に乾いてしまいます。
 ホテルにチェックインし,ほかの人たちは思い思いのスタイルで休憩をとったようですが,私たち(私と妻,そして同じツアーで仲良くなった2人の4人)は着替えと荷物の整理をしてすぐに,アスワン付近の観光に向かいました。ホテルからの交通手段で,一番おすすめなのは,ファルーカ(帆掛け船)です。ヌビア人の操るこの船には,是非乗ってみたいものです。おすすめです。
 ホテルに着いたのが3時20分だったので,4時にファルーカを1艘チャーターしました。ナイル川の島巡りをファルーカを貸し切ってしようというのです。1時間で60LE(エジプトポンド)=約1600円ということでしたが,4人で行ったので,一人あたり約400円です。また,時間も結構融通が利き,結局1時間20分のツアーとなりました。

《エレファンティネ島:アスワン博物館・クヌム神殿・ナイロメーター》

 貸し切ったファルーカを操るのは,白い服を着たヌビア人でした。とてもシャイでまじめそうな青年でした。また,ホテル関係のコーディネーターのような人もついてきました。私たちが行きたいところを告げると,どのくらい観光に時間がかかるかおよその見当を教えてくれました。
 私たちは,ホテルのある島からすぐのところ(ファルーカで10分程度)のエレファンティネ島にあるアスワン博物館と,クヌム神殿,ナイロメーターを見に行くことにしました。ファルーカは夕方の涼しい風を受けて,ナイル川の水面を,音もなく滑るように進みます。非常に快適です。エンジンの音のする船になれているので,帆掛け船というのはそても新鮮でした。また,環境にも優しく,とても優れた交通手段のように思われました。大きな帆で風を受け,意外や意外,すごいスピードで進みます。先ほどまでの暑さが嘘のように,顔に涼しい風が当たります。
 快適なクルージングを楽しんでいると,間もなくエレファンティネ島が見えてきました。クヌム神殿やナイロメータの入り口(出口?)も川の上から確認できます。澄んだ目のヌビア青年は,船を巧みに操り,エレファンティネ島の船着き場にファルーカを横付けしました。
 1時間後に戻ってくる約束をし,アスワン博物館に向かいました。彼らは1時間ほど,何をして時間をつぶすのでしょうか。

『アスワン博物館』

 アスワン博物館の入場券は,アスワン博物館とクヌム神殿,ナイロメーターの共通券でした。10LEを支払い,入場しました。だいぶエジプトの感覚になれてきたので,多少のチップを払い入り口のお兄さんにガイド(英語)を頼みました。このアスワン博物館は,アスワンとヌビア地方で発掘された遺物が集められていて,初期王朝や古王国時代以前の(日本でいうところの旧石器時代みたいな時代)先史の遺跡から出土した石器ややじり・釣り針などから,ミイラや石棺などの古王国,中王国,新王国,グレコローマン時代と,年代順に展示されていました。アスワンはずいぶんと昔から交易の要所として栄えたことがたいへんよくわかりました。英語で一生懸命説明してくれるお兄ちゃんの話もとても楽しく聞くことができました。無造作にいろいろなものが並べられていましたが,たいへん貴重なものだということがわかりました。特にミイラの多さには驚きました。子供のミイラや動物のミイラなどもあったり,ミイラの周りに巻いた布がほどけていて足の指が見えたり,決して保存状態は良くはないのですが,とても興味深かったことは事実です。

『クヌム神殿』
 博物館のすぐ隣,島の南東部に残る神殿がクヌム神殿です。現在ではほとんど瓦礫の山といった感じの遺跡ですが,先ほどのアスワン博物館に収められていた出土品から想像する限り,ものすごい神殿であったことは想像に難くありません。
 その昔,ナイル川の水位が7年間も上がらず大干ばつに見舞われたという記録がナイロメータの上流にあるそうです。時の王は,ナイルの神クヌムに盛大な生贄を捧げ増水を祈願しました。その願いが叶ったことに感謝してクヌム神と妻のサトリス神を祀った神殿を建てたのがこの神殿の始まりだそうです。以後,アメンヘテプ3世,ラムセス3世,アレクサンダー2世,シーザー,トラヤヌス帝などの手で,増改築が行われたそうですが,現在は当時の面影をわずかに残すだけとなっています。

『ナイロメーター』
下から見上げて左側にムハンマド・アリ朝のものとグレコローマン時代のもの,右側にファラオの時代のものが彫り込まれている。赤い枠の中がファラオの時代のナイロメーター
 クヌム神殿を右側に見ながら島の南東の角にイロメーターがありあます。ここは,アスワンに行ったら是非見に行きたいと添乗員に相談したところでした。ツアーのコースにはないため,なんとか見に行けないかお願いしたのです。
 幸い,ホテルに着いてから夕食までの自由になる時間に,訪ねることができることになり,とてもうれしく思っていました。ファルーカを貸し切って訪ねたため,楽しさも一段と増しました。一緒にエレファンティネ島に渡った同じツアーの仲間もとても愉快な人たちだったため,とてもよかったです。
ナイル川の水位をこのように測る
左がムハンマド・アリ朝のもの,右側がグレコローマン時代のもの ナイロメーターは,古代から最近まで用いられていた水位測定のための目盛りです。階段状の水路の壁にナイル川の水位を測定するための目盛りが刻まれていて,この目盛りを使って水位を測定したのです。ナイル川沿岸で農耕を営む人々にとって,ナイル川の水位はまさに死活問題でした。ここで測定されたデータが即座に下流に伝えられれ,農業に役立てたのでしょう。ここは,行って良かったと思いました。
 ナイロメーターの入り口でガラベーヤを着たおじさんが,立っていたので,帰りにチップを払うことにして説明をしてもらいました。自分たちで見るだけではわからなかったのですが,おじさんの説明によってナイロメーターが3種類あることを知りました。一番古いのがファラオの時代のもの,次に古いのがグレコローマン時代のもの,そしてもっとも新しいのがムハンマド・アリ朝のものだそうです。ファラオの時代のものはさすがに線がかすかに残っているだけでしたが,ムハンマド・アリ朝のものは,別の石が埋め込まれていて大変精巧に出来ていました。
説明をしてくれたおじさんも一緒に撮影 おじさんにチップを払い,一緒に写真を撮ってナイロメーターをあとにしました。川の上からナイロメーターの入り口(出口?)を見ることができますが,中を見ないとその価値がわからないと思います。アスワンを訪ねたら必見です。

 《写真の説明:左上…ナイロメータの下から上を撮影(撮影時,ナイル川の水がすぐ足下でした)/右上…ファラオ時代のナイロメーター/左下…ムハンマド・アリ朝のもの(白)とグレコローマン時代のもの(やや太い平行線)/右中,水位を測るところ(ムハンマド・アリ朝のものはとグレコローマン時代のもの)/右下の左側…ナイロメーターの入り口から下に向かって撮影/右下の右側…ナイロメータの取水口(ファルーカの上から撮影)》

《洗濯物》

 帰りのファルーカは,風がなくなったため,ヌビア青年の手漕ぎでした。
 ホテルに着いてから,ロビーでビールを飲み,一休みをしました。部屋に戻って洗濯をしました。外はからからに乾燥していて,暑いので,洗濯物はあっという間に乾きます。洗濯したパンツはみるみる間に乾き,ジーパンも1時間ほどでパリパリに乾きました。
 強い日差しが傾き,夕方になってきたので,ベランダでちょっとくつろごうかと思って外に出ました。でも,まだまだ熱く,10分もしないうちに汗が吹き出しました。

《ファルーカでナイル川舟遊び》

すれ違った別のグループのファルーカ 19時,夕食前の涼しくなってきたところでファルーカに乗って舟遊び(ツアーの内容に入っていました)に向かいました。すでにファルーカの経験済みの私たちは,乗り込むときもなれたものです。ツアーの参加者(体調を崩した1名をのぞく)と添乗員,ガイドが乗り込み,先ほどの青年の操るファルーカはナイル川を滑り出しました。といいたいところですが,急に風がなくなり,帆を張らずに手漕ぎとなりました。ちょうど夕日が沈み,薄闇が船を包みました。一番星が空にのぼり,澄んだ空気の中に大変美しく光っていました。
 しばらくすると,ヌビアの青年2人が民族楽器(打楽器)を取り出し,ヌビアの音楽と歌を演奏し始めました。かけ声のかけ方や振りを教わり,みんなで輪になって踊りました。不思議と体が動き出し,心地よくテンションが高まりました。
 帰りの途中からツアー参加者全員で自己紹介をしました。(後述のE氏はこの席で自分のことをファラオと呼び,その後このツアーが終了するまで,皆からファラオの愛称で呼ばれることになります)
 およそ1時間のファルーカによる舟遊びでした。
 

《現代のファラオ,エジプトに現る!?》

左がE氏(通称ファラオ),右側は私の妻です。 夕食は,ホテルのバイキングでした。食欲だけは減退しなかったので,いろいろ食べました。デザートもいっぱい食べました。そして,夕食後,何人かでホテルのバーに出かけました。ツアーの参加者であるE氏(エレファンティネ島にもご一緒させていただきました)は,非常に個性的な好人物で,そのバーにガラベーヤ(エジプトの民族衣装というか普段着のようなものでワンピースににたもの)を着て登場しました。自分から「私はファラオだ」と名乗り,とてもご機嫌でした。また,私たちは彼から「海外での英会話のいろは」を伝授してもらい,そのおかげか,今回のツアーの買い物などで,結構英会話を楽しむことができました。
 エジプトに旅行をする人は,さすがに最初の国(海外旅行1か国目)という人はいなく,海外旅行の経験が豊富な方が多かったので,ほかの国々のいろいろなお話を聞くことができとても楽しい時間となりました。
 でも,このバーで失敗が…。ファラオ(E氏)が得意の英会話で,バーテンに頼んでくれたカクテルに氷が入っていたのです。酔いも回っていたので,まったく気にせずそれをかみ砕きながら飲んでしまったのです。(旅行中それまで,十分に注意していたのですが,このときはうっかり忘れていました)翌日,なんだかおなかの調子が悪かったのは,きっとこのときの氷のせいだと思います。