5:30 朝食・・・ウルバンバの宿泊先【インカランド】
5:50 出発
6:10 オリャンタイタンボ駅着
6:30 オリャンタイタンボ駅発「FERRO STAL号」
7:50 アグエスカリエンテス駅着
7:55 マチュピチュ行きバス発
8:20 マチュピチュ着
11:40 ワイナピチュ登りはじめ
12:30〜13:25 ワイナピチュ山頂で休憩
14:05 下山
14:43 バス乗車
15:05 アグエスカリエンテス到着
夕方 温泉へ
夕食 ホテルのすぐ近くのレストラン
ウルバンバから車で20分。オリャンタイタンボ駅に到着しました。鉄条網の扉が係の人によって開けられ、駅に入りました。駅にはすでに列車が停まっていて、乗り込むばかりです。私たちは、非常に運がよく、1両編成のレトロな列車(1両なので列車というかは疑問だが)の一番前の席でした。
6時半発のオリャンタイタンボ駅始発のこの列車は、アグエスカリエンテスに一番最初に着く列車です。クスコ6時始発のアウトバゴンよりもアグエスカリエンテスには2時間近く早く着きます。当然にマチュピチュにも2時間近く早く着くことになります。従って、クスコを早朝出てきたと思われる人や、ウルバンバやオリャンタイタンボ周辺で宿泊したと思われる人も乗り込んできました。少しでもすいているマチュピチュに行きたいと考える人たちが結構いるんだなぁと思いました。
日本人は私たちだけ。多くのツアーでは、クスコ発のアウトバゴンに乗ってくるようです。
列車は、途中、いくつかの駅に停まりました。単線なので、駅で、ローカル列車とのすれ違いがありました。また、線路を人、羊、牛、犬、ニワトリなどが歩いているので、その都度警笛を鳴らしたり、それでもどかない場合は動物がわたり終わるのを待ちます。とてものんびりしているなとも思いましたが、ペルーでは、動物が優先なのかもしれません。
列車は、ウルバンバ川に沿って走ります。雪を頂いた5000m級の山々が時折顔を見せ、大変美しくそびえ立っていました。また、途中にはいくつかインカの遺跡(段々畑や砦など)が見られ、壊れそうな橋、隙間がわずかしかない隧道、曲がりきれるか不安なカーブなど、ややスリルもあり、楽しい列車の旅でした。
驚いたのは、車内サービスがあることです。簡単なサンドウィッチと、フルーツ、ドリンクのサービスです。また、しばらくすると、今度は、マチュピチュの写真集やビデオなどを売りに来ました。荷物になるので何も買いませんでしたが、結構商売熱心だなぁと思いました。
オリャンタイタンボからアグエスカリエンテスへは下りです。また、1両編成の列車ということもあり、予定よりも早く1時間20分ほどでアグエスカリエンテスに着きました。
『マチュピチュ遺跡までのアプローチ』
アグエスカリエンテスには、予定よりもやや早く、8時前に着きました。そこからは、バスでマチュピチュに向かいます。8時発のバスに滑り込み、バスに乗車しました。
バスは、つづら折りの山道をすごいエンジン音で登ります。片道約20分で頂上に到着です。でマチュピチュ遺跡の入り口には、8時20分に着きました。バス降り場は、マチュピチュ遺跡の入り口手前にあるサンクチュアリロッジ横に着きます。ここは、一泊数万円で、非常に割高なのですが、確かにマチュピチュに一番乗りできるところには間違いありません。
手に持った1泊分の荷物は、やはり邪魔なので手荷物預かり所に預けました。手荷物預かり所は、チケット売り場をくぐり、その左側と、トイレの右側と2カ所ありましたが、トイレの右側の方が空いていました。チケット売り場横はインカ道トレッキングの団体が列を成して並んでいました。預けるのには4ソル(およそ140円)。番号の書かれた札をもらいました。
マチュピチュ遺跡は、今回の旅行の目玉です。ここに来たくてペルーまではるばるやってきたのです。期待がどんどん脹らみ、わくわくしてきました。はやる気持ちを抑え、ガイドと共に入場しました。料金は、ペルーの中では抜群に高く、何と20ドルです。はじめ、ちょっと高いなぁと思いましたが、帰りには、十分その価値があったとうなずきました。(マチュピチュ1日目は、旅行会社が手配したツアー用のチケットのため、やや安いようです)
『マチュピチュ遺跡への第一歩』
入り口からすぐのところにマチュピチュを発見したハイラムビンガムの名前の入ったプレートが埋め込まれていました(写真)。また、すぐ右側は段々畑の跡が残っていて一気にタイムスリップします。そして右に崖を見ながら進むと左に分かれる道があります。ガイドの案内についてそちらに進みました。インカ道トレッキングのパーティとすれ違いながら5分ちょっと歩くと視界が開けました。右にはマチュピチュ遺跡が少し見えるのですが、インティプンク(太陽の門)の方向(左)に進みます。段々畑の間を2,3分進み、右に折れました。ガイドの話だと、ここからマチュピチュにはいると上から下へと歩くことになり順路的にもよいそうです。
『墓地・10の扉』
段々畑の中をリャマの糞を踏まないように気をつけながら墓地に向かって進みます。墓地からは173体のミイラが見つかったそうですが、そのうち150体が女性だったことも興味深いです。インカ軍がマチュピチュを去るとき、インカとマチュピチュの秘密を守るために残った女性たちが殺され葬られたのではないかといわれているそうです。墓地の南側にある10の扉と呼ばれるところで、ガイドの篠田さんにマチュピチュ遺跡のことやインカ帝国のことを説明をしてもらいました。また、素敵な歌のプレゼントもしてもらいました。来年の年賀状用の写真を撮ろうと、一杯シャッターを切りました。茅葺きの見張り小屋を下に見るこのあたりでは、ウルバンバ川から斜面を駆け上ってくる風が大変心地よく、足下にマチュピチュが一望できるところでした。非常に気持ちのよいところです。
『マチュピチュ遺跡について』
マチュピチュは、インカの隠れ家だったといわれています。インカ帝国はスペインに征服されるちょうどそのころ全盛期を迎え、領土は今のエクアドルからチリ、アルゼンチンにまで及び、まさに南米最大の大帝国でした。しかし、1532年、フランシスコ・ピサロ率いるわずか200人弱のスペイン人征服者によって崩壊してしまいます。首都クスコは奪われ、インカ王は捕らえられ、町は破壊されてしまいますが、インカの抵抗は細々と続きます。インカの人々は、スペイン人の手の届かないところに秘密基地ビルカバンバを建設していたのです。
ビルカバンバについての古い記録、「・・・非常に高い山の頂にあり、精巧な技術で建造された壮大な建物がそびえ立つ・・・」という数行の記述にヒントを得たアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムは、今から90年前、このあたりを探検中に、地元の人々の言い伝えやをたよりにビルカバンバを探しました。そして、1911年7月、草に覆われた段々畑をよじ登り、ついにこの遺跡を発見したのです。マチュピチュはこうして、400年の眠りから目覚めたのです。
ビンガムはビルカバンバを発見したと考えたのですが、インカ帝国の人々が持ち出して隠したとされる黄金などが発見されていないことから、マチュピチュはビルカバンバでないことががわかりました。
しかし、マチュピチュは、インカの人々が生活していた場所であり、逃げ延びたインカの人々が1万人も住んでいた場所にはちがいありません。「空中都市」「失われた都市」などと形容されるマチュピチュ遺跡は、山の断崖絶壁にあり、一つ山を越えるとその向こうはアマゾンという場所にあります。神殿や宮殿、礼拝堂、広場や道路、水汲み場、住居などから成り立ち、周囲には200くらいの住居跡もあります。農業用の段々畑は山の斜面を最大限利用するように造られ、綿密に設計された都市です。しかし、この遺跡の歴史的なことは未だにわかっていません。今も多くの謎を残したマチュピチュ遺跡は、かつてのインカ帝国を思い起こさせ、想像をかき立てさせます。夢と浪漫を感じるところです。
マチュピチュ遺跡の名前の由来は、この遺跡が存在する場所の山の名前です。マチュピチュとは、「老いた峰」という意味だそうです。今回、一般の旅行者もよく登るワイナピチュだけでなく、この遺跡の名前の由来になったマチュピチュにも登りました。(後述)
『インカの橋』
次に向かったのは、「インカの橋」です。墓地すぐ脇から出ているインカ道を20分ほど歩いたところにあります。インカの橋に向かう道の左側は、そそり立つ壁、右側は足がすくむような断崖です。そんな場所に造られたインカ道は人がやっとすれ違うことができるほどの幅しかありません。足下はしっかりと石組みで支えられているので安心感がありますが、下を見るとクラッと来ます。橋は、丸太数本でできており、敵が来たらそれを落とす仕組みです。確かに、橋を落とせば、絶対に敵が侵入することは不可能です。でも、いったいどうやってこの危険な場所に石を組んだのだろうと不思議に思いました。きっと、何人も命を落としたんだろうなと思うような場所です。何年か前に橋の手前の道がくずれ、現在は10数メートル手前までしか近寄ることはできず、行き止まりになっていますが、それでも十分にスリルがありました。写真を見てもわかると思いますが、本当にどうやって造ったのでしょうか。(マウスポインタを写真の上に持っていくと拡大されます)
『市街地への入り口〜採石場(石切り場)』
本来マチュピチュの正門だったと思われるところです。内側から眺めると、上に丸い出っ張りと、両脇に石の棒の挟まったへこみがあります。両開きの扉がついていたそうです。(マウスポインタを合わせると内側(市街地側から)の写真を見ることができます。)また、一説によると、左右と上の穴にロープを通して石などが落ちる仕掛けを作り、よそ者の進入を防いだともいわれているそうです。
入り口を抜けると、見張り小屋付近からも見ることができた採石場(石切り場)へと続きます。マチュピチュ遺跡を造っている石(花崗岩)は、あちこちから運んできたのではなく、ここにあったものを上手に切り出したものです。現在でも、そのあとが石切り場として残っています。切り出している途中のもの(くさびのあとが残っているもの)がありました。分離の途中で放置された石がそのままになっています。
『現在執筆中』
とりあえず写真だけ・・・。