8月17日 終日ツアー(バイフ・アカハンガ・トンガリキ・ラノララク・テピトクラ・アナケナ)


08:10 朝食 〜8:43
09:30 ホテル出発
09:34 スーパーマーケット 
09:50 バイフ(ハンガ・テエ) 〜10:28
10:32 アカハンガ 〜11:32
11:47 ラノ・ララク 〜14:20(昼食含む)
14:27 アフ・トンガリキ 〜15:00
15:12 アフ・テ・ピト・クラ 〜15:37
15:43 アナケナビーチ 〜16:30
16:48 ホテル着
19:00 集合出発
19:10 空港着
21:20 搭乗
21:55 離陸→タヒチへ(23:38パペーテ着(イースター島時間では03:38))

【アフ・バイフ(アフ・ハンガ・テエ) Ahu Vaihu(Ahu Hanga Tee)】9:50〜10:28

 この日は,朝の時間に余裕があり,ゆっくり朝食をとることが出来た。車に乗り込み,日本語ガイド付き一日ツアーに参加。まずは,スーパーというか,ガソリンスタンドの売店といった感じのところで水とスナック菓子を調達。すぐに出発した。島内の観光地スポットには,トイレのあるところがあまりないので,特に女性は水分の取りすぎには注意が必要だが,健康上のことを考えると,しっかり水は補給したい。喉が渇くちょっと前に少しずつ補給するとよいようだ。
 直角二等辺三角形の斜辺に相当する南側に出て,あとは,東へ東へと進む。まずは,倒されたままのモアイ8体がある,バイフの到着した。海岸線のすぐ近く,顔を下にうつぶせの状態で大きなモアイが倒れたままとなっている。頭の少し先には,プカオが無造作に転がっていた。モアイを倒す戦争の後は墓として使われたそうだ。また,祭壇の手前には,環状列石(石のサークル)があり,ここで,様々な儀式が行われていたそうた。
島内にあるモアイのほとんどが倒されたままになっているわけをガイドから聞いた。いくつかの理由があるが,まず,お金の問題が一番のようだ。イースター島は,チリ領であり免税島なので,チリ本土からお金をもらわないことには,復元はできないということだ。TADANOのようなパトロンがいないとなかなか…ということである。また,仮にお金があっても次に技術的な問題が出てくるということだ。それでなくとももろい凝灰岩を傷つけることなく起きあがらせる技術がないというわけだ。そして,次に,保全の問題。モアイの年齢は300歳ほど。そのわずか300年の間に,すごい勢いで風化が進んだという事実がある。起きあがらせることよりも,まずは風化を防ぐプロジェクトが先であるというわけだ。このようないくつかの理由のため,貴重な遺産が風化し朽ちようとしている。
 この後に訪ねたトンガリキのように,風化を防ぐ処理を施しつつ,安全確実にモアイを起きあがらせる技術や資金が今後確保され,イースター島全体のモアイが守られていくことを祈りたい。
 ここ,アフ・ハンガ・テエのモアイの色は,他と少し違っていた。切り出した凝灰岩の成分によって色は決まってくるそうだ。
 また,バイフをはじめ,イースター島の海岸は,磯の香りが一切しない。生物が少ないのだ。これは海洋性プランクトンが少ないことを意味する。このため,イースター島では世界屈指の透明度をほこり,良いときでは,水の透明度は60mに及ぶという。
 ちなみに,以前は,伊勢エビをはじめ多くの海産物が獲れたそうだが,こちらも島の木々と同じく獲りすぎにより,今は絶えてしまったそうだ。
 

【アフ・アカハンガ Ahu Akahanga】10:32〜11:32

 ホトゥ マトゥア王の村と言われているアカハンガには,海岸線に沿って倒れたモアイが多数あった。また,時代が進むにつれ,祭壇やモアイの大きさも次第に大きくなっていく様子がよく分かった。
 ここアカハンガには,ハレバカ(ボートハウス)と呼ばれるボート型の住居跡がいくつかあり,村があったことが伺える。このボートハウスは身分の高い人の家だと言われているそうだ。海岸近くの岩穴にには,庶民の住居跡と言われているものが残っている。
 ボートハウスは幅約1.5m,長さ10〜15mの細長い形で,周囲に並べられた石の所々に穴が空いており,そこにアーチ状の支柱を立て,ちょうどボートを伏せたような形になるように屋根を乗せたそうだ。
 イースター島にあるモアイの多くは,未だに倒されたままであるが,そのモアイ倒しの原因とされる説について,ガイドから説明があった。約1500年ほど前に最初に島に渡ってきたのは,ホトゥ・マトゥア王の一族(耳の短い部族)の子孫のハナウ・モモコ族である。その後耳を長くする習慣を持つハナウ・エベベという部族(知識や技術を持つ人達)が島に渡ってきてから状況が変わったそうだ。耳を長くする習慣を持つハナウ・エベベ族が島を征服してしまったのだ。そのハナウ・エベベ族を象ったとされるモアイ(耳が長い)を,耳の短いハナウ・エベベ族が倒したという説(民族抗争説)がある。しかし,現在学会では,食料不足に陥ったための抗争で,部族の守り神の意味をもっていたモアイを倒したのではないかという食料危機説が優勢だそうだ。 

【ラノ・ララク Rano Raraku】11:47〜14:20(昼食を含む)

 ラノ・ララク,つまりララク火山は,島内の大半のモアイ像が削り出されたいわばモアイ製造工場だった場所である。山腹には,無数のモアイが散乱しており,山肌には作りかけのモアイ像や,運び出される途中で放置されたようなモアイまである。また,ここには,島内で最大と言われるモアイ(全長20m以上ある)や,もあい・トゥク・トゥリと呼ばれる正座しているモアイ(初期のモアイ像といわれている)など,他で見ることができない珍しいものがたくさんある。ここには,未完成のものも含めて全部で400体のモアイがあるそうだ。
 写真にあるように,多くのモアイが,半分土の中に埋まっており,地上に出ている部分(型から上)でも,人の背丈の何倍もある。小さい物で4〜5m,大きい物で10m以上といった感じだ。
 ラノ・ララクは,火山であり,火口湖のまわりには凝灰岩が豊富にある。凝灰岩は,玄武岩などの固い火成岩で容易に削ることができたので,ここで大量のモアイが作られることになったのであろう。研究によると,5mのモアイを当時の方法で彫っていくと,2人が交代制で作業をしたとしても1年かかるそうだ。モアイは,仰向けの状態で掘り進め,仕上げの段階で初めて垂直に立てられるそうだ。せっかく完成間近まで作っても,この垂直に立てる行程で折れてしまうこともあるという。面白いことに,折れたモアイを材料に,小型のモアイを作ったようなあとも見て取れた。また,11〜12m以上の物は,大きすぎて運べなかったのではないかという。しかしここには,さらにもっと大型のモアイもある。そこで疑問が生まれる。一体運ぶことのできない大きなものをなぜ作ったのか。モアイ職人の競争であったとか,そもそも運ぶつもりはなく次第に作ることが目的になっていったのではないかといわれているそうだ。 
 私がイースター島に来る前に持っていたモアイのイメージは,風化していない角張ったものであった。実際にイースター島に来て見たモアイはというと,風化していて,海岸線で倒されたまま放置された物や,角が取れて頭にプカオを乗せたものであった。しかし,私が日本で持っていたイメージは,チリ政府が観光PRに用いた写真がこのラノ・ララクのモアイであったためではないかと聞かされた。ラノ・ララクの石切場のモアイは海岸付近で倒れている物とちがって内陸にあるので風化しておらず,確かに角張っている。
 この日のツアーで,ここは,唯一トイレがきちんと整備されており,昼食を取るための椅子とテーブルがたくさん並べられていた。ほとんどのツアー客はここで食事を取るため,トンガリキが混んでいるようならばラノ・ララクで先に昼食を,逆に空いているようであればラノ・ララクを後にするという風にうまく回しているようだ。
 また,だんだん気づいてきたのだが,この日,行く先々で,風呂敷を広げたようなおみやげ物を売る行商人のような人達がいるのだが,どこに行っても同じような顔をしていた。よくよく考えてみたら,ツアー客とほど一緒に回り,観光を終えタコ路には店を開いて待ちかまえているのであろう。
 そして,もう一つ,これはガイドから聞いた話なのだが,たくさんある一日観光ツアーのグループは,ほぼ同じような時間に同じ場所を観光していく。混雑を避けて時間をずらしたり回る向きを逆にすることはない。その理由が,何かトラブルがあったときにお互い助け合えるようにするためだそうだ。周囲に何もないこの島でトラブルがあったときには,近くに仲間がいることが最善の対処方法のようである。

以後,執筆中