8月15日 半日ツアー(アキビ,アナ・テ・パフ,プナ・パウ,ビナプ)


09:58 マタベリ空港着(LA834便)
10:50 空港発
11:00 ホテル着「ホテル ハンガロア」 
11:45 ホテル発(昼食に出発)
12:00 昼食「ARIKI O TE PANA」(エンパナーダ)
13:10 ホテル着
15:00 ツアー出発
 ・アキビ(島で唯一海を向いているモアイ7体)…15:14〜15:45
 ・アナ・テ・パフ(溶岩洞窟:天然の風よけを利用した果樹園)…15:50〜16:15
 ・プナ・パウ(プカオを切り出した石切場)…16:30〜16:55
 ・ビナプ(精緻な石組みの祭壇,女性のモアイ)…17:08〜17:45
17:55 ホテル着
20:08 ホテル発(夕食に出発)
20:27 夕食「SU CUERITO REGALON」
21:42 ホテル着

【イースター島への第一歩】

 タヒチを離陸し約4時間半,イースター島のマタベリ空港に降り立った。
タヒチとの時差は−4時間,日本との時差は−15時間である。タヒチを飛び立ったのが深夜1時半なので,フライト時間の4時間半プラスしてタヒチ時間で朝6時,時差の関係でイースター島では10時である。機内では,離陸後すぐにサンドイッチが出され,着陸前に朝食が出されたためほとんど眠っていない。完全に睡眠不足である。やっぱり東回りはつらい。
 それまで海しか見えなかった飛行機の窓に,急にぽつんとちっぽけな島が見えてきた。上空から見える風景は,高い木が全くない,うっすら緑色をした小さな島と,そこにある長い長い滑走路(あとで聞いた話だが,この滑走路3300mもある。通常は2500mもあれば十分ジェット機が離発着できる)であった。他には何もない。
 着陸すると,空港には私たちが乗ってきた飛行機だけ。当然と言えば当然だが,タヒチからイースター島へは週1便,サンチアゴからも週1便しか飛行機は降りないのである。(週1往復*のタヒチとサンチアゴを結ぶ便の経由地である。)なんとも贅沢な空港である。
 ここはチリ領である。ということはスペイン語圏か…。タヒチでは,フランス語と英語が入り乱れていたが,ここではスペイン語がほとんど。英語も通じた。
 現地通貨もあるが,ほとんど米ドルでOK。両替は一切必要なかった。おつりはチリペソで来るので,最後に空港で使い切ればよい。

*現在は週に2往復しているようだ。


【ホテル ハンガロア】

 イースター島にはホテルという名前が付くところは10軒もなく,その中の一つが,今回宿泊したホテルハンガロアだ。イースター島で最初にできた老舗ホテルである。そのため,歴史を感じさせるホテルではあるが,私が宿泊したスタンダードルームは,築30年を越え,建物の老朽化(ドアや窓,バストイレ洗面台)が気になった。とりあえず,ベッドや居室は問題なく,必要最低限のものはそろっているのだが,特に,水回りでやや不安を感じた。最近(1997年)できたコテージ風のスーペリオールに宿泊した方が良いかも知れない。宿泊料金に朝食がついているので,朝,レストランを探す心配はなく,温かいオムレツを目の前で焼いてくれたり,フレッシュなフルーツジュースなどを飲むこともできる。
 場所はハンガロア村のはずれで,海に近いところにあり,静かではあるが,街まで歩いて10〜15分と少し遠いような気がした。夜の星が美しいことは,折り紙付きである。
 せっかくイースター島まで来て観光をするのだから,それぞれの観光スポットで,そのいわれや説明などが分からなければ,もったいない。ほとんどが現地の英語ツアーやスペイン語ツアーに参加するパターンだが,日本語のツアーもないわけではない。イースター島観光で日本語ツアーを行っているツアー会社の1つである,アンデスニッポンのスタッフが常駐しているのがこのホテルであり,今回,その関係もあって,ここに宿泊することとなった。

【昼食 エンパナーダ@ARIKI O TE PANA】

 この日のツアーは,午後3時出発予定ということなので,眠気の残る中,昼食と村の下見を兼ねて,ハンガロア村の中心部に向かった。
 11時45分にホテルを出発し,歩くこと15分ほどで,目的のレストランに到着。巨大な揚げ餃子のようなロシアのピロシキ似の「エンパナーダ」というファーストフードに挑戦。肉や魚,野菜などの具を,生地でくるみ,油で揚げたもの。マグロや野菜などが人気で,手軽に食べることができる。注文を受けてからおばちゃんが作りはじめ,揚げたてのエンパナーダにチリソースなどを掛けて食べる。そのまま手に持ってかぶりつくと,中からはジューシーな具が。うまみが口の中に広がり,さくさくとした生地と相まって,なかなかおいしい。これで,300〜400円程度である。(マグロのエンパナーダ:1500ペソ,野菜のエンパナーダ:1800ペソ,合計3300ペソ=6.6ドル)ちなみに,イースター島では,ほとんどが米ドル(2005.8現在1ドル=500ペソだった)で通じる。ここでも7ドル支払い,おつりはペソで200ペソ返ってきた。ちなみにこの店には日本語のメニューがあり,おばさんの助手?と思われるお兄ちゃんが,わたしが日本人とわかると,にこっとしながら日本語のページを開いてくれた。

【アキビ:AHU AKIVI】

島内の各観光スポットの入り口には,このような案内がある。 モアイのほとんどは,海岸近くにあり,海に背を向けている。その中で唯一小高い丘の上にあり,海に向かって立てられた像がアキビのモアイだ。(春分と秋分の日没の方向を向いているそうだ。)
 ハンガロアの村から,しばらく進むと舗装路がなくなり,未舗装の悪路となる。出発から15分ほどでアキビに到着。今回の旅行で初めて出会うモアイだけに,期待がふくらんだ。雨期の終わりではあるが,幸い雨の気配はない。風がかなり強かったが,これがこの島では日常のようである。
唯一,海の方を向いている青空をバックに,7体のモアイが悠然と立つ 私たちを迎えてくれた7体のモアイは,高さは4m前後,重さは10トン以上ある。イースター島でモアイがつくられはじめた初期(西暦800年頃につくられたものだそうだ。)に製作されたモアイで,プカオ(頭の上に載せられる帽子のように見えるもの)は載せられていない。モアイには「祖先の像」や「部族の守り神」,「神や王をかたどったもの」など,様々な意味(解釈)があるが,このアキビのモアイは,「記念碑的なもの」であると言われているそうだ。7体あるモアイが表すのは,ホトゥ・マトウア王の伝説に出てくる7人の使者とも,7人の王子とも言われているが,ガイドの話によると,ヒバの国のハウマカ王が移住の地としてこのイースター島を選ぶ際の調査隊の7人(ハウマカ王の息子2人と,弟(甥)の息子5人)を表しているそうだ。
 モアイに近づくことや触れることももちろん禁止されているが,モアイの下にある祭壇(アフと呼ばれる)は,島の人たちにとってはたいへん重要な意味があり,ここにも立ち入り禁止である。アキビの祭壇は大きな角の取れた石が整然と並べられていた。
 モアイについてだが,紀元700年頃から,16,17世紀ごろまで作られ続けたそうである。しかし,その後の食糧危機やそれにともなう部族間の戦争により,島内のモアイというモアイは全て倒されてしまったそうだ。通常アフは,村人にとって神聖な場所である海岸(生業である漁に出る場所)に作られ,モアイは村の方を向けて立てられている。つまり海に背を向けて立てられているのだが,ここのモアイは唯一海の方を向いている。そのため,記念碑的な意味があるということである。海の方を向いて立てられた(復元されたのだが…)モアイたちは一体何を見つめ,何を考えているのだろう。

【アナ・テ・パフ:SECTOR ANA TE PAHU】

 島内には何カ所か溶岩洞窟があるそうだ。その中でもここアナ・テ・パフは最大のものであり,昔から村人に利用されてきたそうだ。イースター島では,この洞窟が大変貴重である。なぜかと言えば,島では常に強い風が吹きつけ,植林をしようにも植物を育てようにもこの風によって成功しないのだそうだ。そこで昔から人々は自然にできた格好の風よけである洞窟を利用してきたというわけだ。住居として利用したり,植物園つまり果樹園として利用されてきたりしたわけである。住居として利用されてきたことは,洞窟内にある竈のような跡に残されたすすなどからわかる。
 車を降りた場所は強風が吹きすさび,かなり強烈な風であったが,入り口から一歩入ると急に風が当たらなくなる。洞窟の入り口の吹き抜けのようになった部分には緑の葉が生い茂り,よく見るとバナナがたわわに実っていた。(右の写真の上にマウスポインタを移動させると表示されます。)
 モアイの時代が終わり食糧危機を迎えた島では,人食いやペルーへ奴隷として連れて行かれることから逃れるために,人々がこの洞窟に住んでいたそうだ。
 ちなみに,ペルーに連れて行かれた村人のうち,島に戻ってこられたのは1000人中わずか15人ほど,運良く島に戻ってこられても,ペルーから伝染病を島に持ち込み,それにより島の人口は記録によると1877年には111人にまで減ってしまったそうだ。
 また,この島には,高い木ががほとんどない。これは,風が強く高い木や植物が育ちにくいといこともあるそうだが,実は,この島は20世紀の初めから1953年までスコットランドに島ごとレンタルされた経緯があるからだそうだ。スコットランドと言えば羊です。半世紀の間羊を放牧すると結果は想像に難くなく,羊によって島の緑が食い尽くされてしまったそうだ。これほど地理的に孤立した絶海の孤島であれば,ガラパゴスの例のように島固有の種がたくさんありそうなものだが,現在,島に固有種はまったくないそうだ。何事もやりすぎちゃう島のようである。

【プナ・パウ:PUNA PAU】

 次に向かったのが,プナ・パウというところ。モアイの頭に上にのっかっている帽子のような「プカオ」を切り出した石切り場である。プカオは,14世紀以降に作られたモアイの頭にのせられていて,平たい円柱の中央に突起がある形から,帽子という説や髪飾りという説,髷(まげ)を結った髪(つまりちょんまげ)という説があるが,だれもわからないようだ。
 モアイの切り出し場と,このプカオの切り出し場は地理的に大部離れていて,それぞれ別々のところで切り出し製造され,現地で合体したようである。
 プナ・パウに到着した頃が,風のピークだったようで,正直今までの人生で経験したどの風よりも強く感じた。斜面に向かって吹き付ける風の方向に体を傾けてちょうどスキーのジャンプのような体勢をして釣り合う(わかるだろうか…)のである。遮る物はなにもない…。
 赤色凝灰岩の山のあちこちは,プカオを切り出したために大きなくぼみにできていて,また,あちこちに切り出し途中のプカオや加工中のプカオ,運び出す直前のプカオなどが散在していた。大きさも様々だが,近くに見るとさすがに大きく感じた。

【アフ・ビナプ:AHU VINAPU】

 マタベリ空港の脇を抜け,車は東に向かった。通常ジャンボジェット機でさえ2500mあれば離発着ができるのに,マタベリ空港の滑走路はなんと3300mもある。何のために,イースター島のような絶海の孤島,それも週に数えるほどしか飛行機の離発着のない島にこんなに長い滑走路があるのか。それは,スペースシャトルの緊急着陸用だそうだ。ちょっとした雑学?
 道端にはデイゴの花が咲き,茶色とくすんだ黄緑色の島の中にあって鮮やかな色彩を放っていた。
倒された6体のモアイ…復元されなければこのまま朽ちていくのか…納骨場であることがわかる入り口 アフ・ビナプはラノ・カウ山の東側にある祭壇だ。途中,石油を島に運び入れるためパイプラインと石油タンクがあった。
 アフ・ビナプには3つの見所があった。一つ目はアフの納骨場としての役割を証明する跡,二つ目は精緻な石組み,三つ目は女性のモアイである。また,ここは,以前日本人が落書きをして罰せられ,40万円の罰金を支払うことになったことでも有名?である。
 イースター島内で現在復元され立てられているモアイは40体ほど。ここアフ・ビナプにある6体のモアイ像は顔を下にして倒れたままだ。ここは,部族間の戦争で,結構派手に争われた場所のようで,ハンガロア村の土産物屋に売っていたポスターの図柄にもなっている。アフの西側には納骨場として使われた跡がはっきりわかる入り口をはっきりと見ることができた。
南米インカ文明を思い出させる精緻な石組み女性と見られるモアイ像 また,ビナプNo.1の祭壇の海側は精緻な石組みでぴったりと隙間なく石が積まれていた。一見すると南米ペルーのインカ文明のそれとよく似ている。このことからポリネシア人の南米起源説が一時期叫ばれたが,その後のDNA鑑定の結果アジア起源であることがわかり,南米紀元節は否定されているそうだ。現在は南米接触説というのが有力だそうだ。
 そして,ビナプNo.2と呼ばれる祭壇のすぐ横には,赤色凝灰岩で作られた女性と見られるモアイ像がある。一見すると赤い柱のようにしか見えなかったが,よく見えると,手とへそ,胸が確認できた。
 落書きをした日本人の話だが,自分の名前(フルネーム)を漢字で書いたため,あっという間に捕まったそうだ。島に来る日本人は数えるほど。逃亡の恐れもないのだ。そう,ここイースター島では隠れることも脱出することもできないのだ。地元警察はあわてることはなく,島に宿泊している日本人を順にあたるだけだったわけである。馬鹿なことをした日本人である。恥ずかしい。

【夕食 @Su Cuerito Regalon】

 ホテルに着いて,ちょっと横になったら,あっという間に爆睡。時差と疲れによるものだろうか。20時に奇跡的に目が覚め夕食に繰り出すことにした。イースター島のレストランは魚料理が多いようである。わたしにとっては幸いだった。この店はハンガロア村のメインストリートの中程にある。メインストリートといっても,8時半に開いているレストランは数えるほどしかなく,ガイドブックにも載っているこの店にも客はいなかった。のぞき込むと人の気配があり,営業はしているようだったので入ってみた。その後アメリカ人と思われるグループが入ってきたが,なんだかのんびりとした商売っ気のない島である。
 サーモンのステーキとフレンチフライ(ポテト),サラダ,ティキスープ,ビールと水とコーヒーで24ドルだった。パンは何も言わなくても出てくるもののようである。タクシーを呼んでもらってホテルまでホテルまで3ドル。物価はタヒチに比べれば安いと思った。
 この島でフレンチフライを頼むとビックリするほどのボリュームだ。主食と考えれば分かる気もするが,それにしても大量のいもにはビックリした。また,サラダは思いっきり「野菜」だ。とにかくこまかく刻んだだけだ。スープは塩っ気もちょうどよくおいしかった。食後に出てきたコーヒーはインスタントコーヒーの缶と砂糖のびん,クリームとお湯で,好きなだけ入れて適当に飲んでくれって感じだった。

 この島には,野良犬がいたる所にいる。小さい頃は愛犬としてかわいがられるのだが,大きくなると捨てられるそうだ。人に代われた経験のある犬たちは,人なつっこく,人を恐れたり襲ったりすることはないそうだが,それにしてもやたらたくさんいるのには閉口した。観光客や島の人に適当にエサをもらってのんびり暮らしているのだ。
 レストランで食事をしているときも,気がつくと足下にけっこう大型の犬がいてビックリした。適当にいもを何個かやったところ,その場に座り込んでしまいしっぽを振っていた。それ以上を要求してくるかと心配したが,エサをそれ以上もらえないと思ったのか,しばらくするとどこかへ行ってしまった。のんびりしたのどかな島ならではかな?
 この日の夜は風雨とも強く,嵐だった。立て付けのあまりよくないガラスサッシはかたかたと揺れ,かなりうるさかった。翌日聞いた話だが,イースター島の上空を巨大な渦巻き(低気圧)が通過したそうであった。